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八木福次郎さん プロフィール

1915(大正4)年、兵庫県明石市生まれ。旧制加古川中学校卒。 1933(昭和8)年に上京、古今書院に入社した後、1936(昭和11)年に日本古書通信社に入社。その後、現在に至るまで70年以上にわたって、神保町を拠点に古本の面白さ、古書街の楽しさを伝え続ける。90歳をこえた今なお現役で、2007年10月には平凡社から『古本蘊蓄』を出版。

神田古書店街配置図(1921年/大正10年)

特集 神保町を見守り続けて70年"古書店街の生き字引"八木福次郎さんに訊く パート2

関東大震災、第二次世界大戦をたくましく乗り越える!
―― 大正10年の古本屋分布図をみると、現状に近い姿ですね。
八木 市電の開通による靖国通りの道路拡張、それから大正2年の神田大火などで町が大きく変貌し、いまの古書店街の原型ができ上がりました。ところが、大正12年。関東大震災が起こる。神保町一帯は焼け野原になってしまいましたね。けれど、古本屋は天幕やバラックで店を再開してたくましい立ち直りをみせます。出版社は社屋や倉庫が焼失すると、新しく出版を再開するのに日時がかかるが、古本屋は他地域から本を買い集めれば業務は再開できるのですね。
―― 震災後に建てられた建物が今でも少し残っていますね。
八木 そう。靖国通り沿いには一階が店舗、二階が住居、屋根裏の三階が店員の宿舎といった同じような建物が、長屋のように建ち並びました。第二次世界大戦の戦火もまぬがれ、今でも3軒だけ残っていますね。
―― 神保町の古書店街の中心地が第二次世界大戦で消失をまぬかれたのは、日本文学の研究家・エリセーエフ(ロシア人)が、マッカーサーに進言したからだと野田宇太郎氏が「日本古書通信(昭和51・8)」に記述してますが。
八木 いやいや(笑)例えば、京都や奈良が爆撃をまぬかれたのは、ウォーナー博士の進言と言われていますが、それら大都市を目標からはずすことは可能でしょうが、はたして広い東京のなかで神保町書店街をはずして爆弾を落とすことが可能だったどうか...実際に、焼夷弾なんかは落ちてきましたからね。いずれにせよ、神保町の古書店街が焼け残ったのは事実で、それは喜ばしいことでした。
―― 戦後すぐはインフレ、食料難などで困難な時期だったでしょうね。
八木 それはそれは、はじめての経験ばかりでしたよ。国民全体が食べるものに困る時期でしたからね、本を売りにくる人は多かった。しかし、その仕入れの金に古本屋は困る時期でした。しかし、少しずつ着実に立ち直っていきました。昭和24年に新制大学が各地にできましたが、開校の条件に図書館の蔵書数が何万冊以上というのがあり、何でもよいから数を揃えるために本を買い込む学校、ひどいのになると一時古本屋から借りて査定が終了すれば返すという、まるで貸本業みたいなことをした書店もあった(笑)
―― 今や東京の秋の風物詩にもなった「神田古書まつり」はいつからはじまったのですか?
八木 戦後、昭和30年代に入ると、やっと出版界が復旧しました。そうすると新しい本に眼がいってしまうのはやむをえないことではありますが、古本人気が少し落ちたわけです。そこで、神保町の古本屋が活気を取り戻そうと、期間をくぎって露店を出すことにした。最初はなかなか警察の許可が下りなかったのを覚えていますね。折衝の結果、神保町交差点際の岩波ビルのところが空き地だったので、そこで古本青空掘出し市を開くことができた。昭和35年のことです。これが神田古本まつりの第1回。まつりは大成功でした。連日大賑わいでした。
―― 昭和30年代になると、だんだんと古書店街の風景も変わっていったことでしょうね。
八木 4階建て以上のビルが建てられるようになりましたね。昭和50年代に入ると古書街もビルラッシュの時代にはいりました。60年代に入ると地上げ屋が横行し、しばしば古書店にも立ち退きや移転を迫るというような話もありましたね。しかしバブルも崩壊して、そんな話も影をひそめていましたが、また最近、空き地が増えてきましたね。
―― 住居スペース、オフィス、店舗など複合的な巨大ビルも建ちました。
八木 本当に風景は変わってしまいました。神保町はその時その時で、姿を変え生き残ってきた街ともいえるんですね。「古書店街」なんて言うと、一日千秋のようにまったく変わってないかのような感じがしますが、むしろ、物理的な変化は激しいと言ってもいいかもしれませんね。けれど、「古書店街」というものがもつ「独特な雰囲気」というのは変わらないんですよね。本をめくりながら思索にふける。ゆっくりとした時間が流れている。そんなところが、この街の魅力ではないでしょうか。

武家屋敷だったからこそ古書店街になった!