中野智之さんの神保町

私の神保町

中野書店
中野智之さん
自己紹介
初代が元気なのに、すでに引退後は何をして遊ぼうかと考えている困った二代目。いえ古本業は大好きですよ。
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 初体験は「萬朝報」の看板からはじまる。干支で今より三廻りほど昔のこと。高校二年の夏休みの宿題のレポートに、あろうことか北一輝を調べようと思い立った。なぜこうなったのか今ではすっかり失念しているのだが、何か思うところがあったんだね。

 その頃親父は中央線沿線で古本屋を営んでいたけれど、いわゆる街の古本屋。北一輝関係書なんて置いてやしない。むろん高校の図書館はてんから問題にならない。そこで一念発起、夏のある日、神保町に出向いたのである。
今でもそうだが、お茶の水駅から下ってくると、三省堂書店が本の街の玄関。当時は木造の三階建てだったな。その脇にある小さなお店が三茶書房。ここが最初に入った古本屋。神保町初体験ですな。で、その本棚の上側にふと見かけたのが、「永世無休・萬朝報」の板看板。何なんだろうこれは。

 まず、なぜ三茶書房に萬朝報という看板なのか。よく意味がわからない。永世無休というのは休みなしということか? でも定休日は書いてあるぞ。だいいちこれ何て読むのだろう。首を捻っているうち、ああ、よろずちょうほうっていう洒落か、と気づいた。えらい! でもそこまで。なんで古本屋が「えいせいむきゅう・よろずちょうほう」なのか、わからない。
 もちろん高校生が黒岩涙香なんて知りもしないし、ゴシップをウリにする「アカ新聞」という言葉がこの新聞から生まれたなんて知識もない。新聞とすらわからなかった。

 ただね、この「わからなさ」が魅力的に思えたんだ。ここらを歩く人にとっては、きっと当たり前にわかることなんだろうな。世の中は広いもんだ、うむ。
 もっとも余裕はここまで。それから夏の盛りの半日、一丁目の終わりの大雲堂あたりでへたばり、本を探すのがどれほど大変なことか身をもって思い知らされるのだが。あの時どんな本を買ってどんなレポートを買いたか、これまたすっかり失念してしまった。

 それから三十数年、まさか自分がこの地で古本屋を営もうとは思いもよらなかった。ちなみに「永世不休・萬朝報」の看板は今でも三茶書房の表にかかっていて、古書会館の往復のたびに懐かしくながめている。ただし、今ではすっかり顔見知りの三茶さんだが、なぜこの看板をここに掛けているのか、聞かないままにしているのである。